やまもりスパゲッティ

スパゲッティを食べる

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 が私に教えてくれた言葉の中に、

 「『絶対』という言葉は詐欺師以外使わない」

 というものがあります。

 なかなか良いことを言いますね。

 さて、先日読み返した内田樹先生の著書「ためらいの倫理学」で、内田先生はユーモアを交え「無知の知」をこんな風に表現していました。

 

私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている。 (同書、42p)

 

 これに私は強く同意します。

 というのも、ネットで日頃見かける言論に、ほとほと疲弊しているからというか、息苦しさを覚えるからです。

 以下、どうかあほな学生の愚痴りと思い聞き流して下さい。

 

 が以前非常に憤ったものごとの1つに、

 「生まれつき重度の障害を持った海外の子供を育てる親のネット記事」

 での心ないコメントがあります。

 記事はいわゆる2chまとめのアフィリエイトブログのものなのですが、そのサイトでのまとめ方針は

 「親のエゴ、子供を殺すことが子供にとっても救い」

 という言説一辺倒でした。

 さすがにこんな非情なはずがない、きっとブログの2chコメントの集め方が恣意的なんだろうと思いつつ、ブログ自体に寄せられたコメントを見てもほとんど同意見で、あろうことか批判意見は

 「批判意見を書いている頭お花畑は女だろう」

 などと罵倒される始末。

 

 おいおい。

 

 そのまとめサイトが偏った主張を持ったサイトであったにしろ、当時の私は非情にショックを受けました。

 そんなひどいこと言ったらだめじゃんか。と教えてやりたくなりました。

 できないのがネットのやなとこですね。

 

 て、先に断っておくと私はあまり「正しい」人間ではありません。

 障害者をおちょくったネットでのジョークで大笑いしたり、攻撃性を売りにしたバラエティ、なんでも実況の個人特定などかなり「非人情な」笑いを好むタイプです。

 そんな私がこれほどに憤ったのは、おそらく先のまとめブログでの言説に内田先生の言うところの「自己批判能力」を微塵も感じなかったからではないかと思います。

 そして私は結局、批判された障害者家族の立場によりそって憤ったのではなく、ネットの攻撃性、幼稚性に憤ったのです。

 

 往々にしてネット上の意見というものはシニカルなほど正当とされる風潮にあり、

 「世の中ってきれい事じゃ上手くまわらないんだぜ、ぼうや」

 と、達観したようなことをずばずばと言う方が「大人な意見」とされます(これはネットじゃなくてもそうか)。

 それから力強い言論。

 「絶対にこうだ、なぜならこんなに証拠があるし反対派はどいつもこいつも不勉強だ」

 という握りこぶしに力の入った論調。

 これもまた、ネットじゃなくても有力か。

 

 最も私の憤りの矛先となったのは、先に挙げたとおり、まとめブログでの意見のほとんどが「決めつけ」と「『シニカルな意見』のための意見」であり、そこに「自己批判」のプロセスを感じなかったことです。

 「『自己批判』のプロセス」というとなんだか連合赤軍の「総括」みたいなおっかなさがありますが、

 「人それぞれむつかしい事情があるんだから、人より先に自分を振り返るほうが簡単だよ」

 という意味それだけです。

 

 度の障害を抱える子を親が生かしているのは(あえて生かす、という表現を用います)、そこに私たちには到底及びもつかないような苦悩や葛藤があり、それを踏まえてのご両親の「選択」があったからではないでしょうか。

 もちろんそれは私の憶測であり、「きめつけ」です。

 しかし、それらは

 「相手にはこういう事情があるのかもしれない、私は批判するに十分な知性や洞察力を持ち合わせているだろうか?」

 という考えに基づいた消極的な「きめつけ」です。

 

 人が普段言論の自由をふりかざして批判するものごとの裏側には必ず「選択」があり、私たちは自由こそあれそれらの「選択」を尊重しなければなりません。

 ですから、私は世の人間の「選択」に関してまず頭ごなしに批判してやろう、という気持ちがよく分からない。

 どんなにひどい、むごい「選択」であっても私は当事者が選び取った以上それを一旦くみ取り、その上で私の「自己批判能力」に沿って評価します。

 なぜなら私の主観は私の不十分な知識や偏った思想に依り構成されているため、私自信が最も信頼してはいけない「見え方」であるためです。

 

 例えば障害を持つ親の心の内、

 例えばあの国の人種はこんなに日本へ不利益をもたらしているという怒り、

 例えば辞めたあのアイドルはかくあるべきだったという意見、

 

 それらの中にいくら「正しさ」があろうと、それらをいくら私が好まなかろうと、私は「絶対に」という言葉でそれらを評価することはできません。

 なぜなら私の知識はあまりに不十分だし、

 私は詐欺師ではないからです。